最近は、CDをプレーヤーに入れて、音楽を聴くことがほとんどなくなりました。
今は、こういう人は多いと思いますが、私は何百枚とあった手持ちのCDは、すべてデジタル化し、音楽はデジタル音源で聴いています。
CDを聴くかなくなくなったので、CDを欲しいという友人たちにあげていた時のことです。
私が懐かしの曲が入っているアルバムをピックアップして見せていくと、「チャゲアスはちょっとね…」。 「・・・要らない」と言われました。
私は「このベストアルバムは名曲揃いだよ」言ったのですが、ASKAが覚せい剤所持で逮捕されたので、友人の中では、チャゲアスの曲、すべてのアルバムに対する評価が下がっていたのです。
歌手と曲は切り話して考える
ASKAの逮捕で、確かに、チャゲアスのイメージは悪くなりました。
しかし、かつてのヒット曲のすばらしさが変わるわけではありません。
アーティストが逮捕されたら、そのアーティストの曲は聴かないとか、曲に対する評価を下げたりしていたら、洋楽などは聴けなくなってしまいます。
エアロスミスなど、洋楽のロックバンドは、特にドラッグのイメージが強いですが、名曲を数多く残した、ファンクの帝王・ジェームス・ブラウンも、麻薬関係や交通違反などで、何度も有罪判決を受けています。
楽曲の良さと、アーティストは切り離して考えないと、音楽自体を楽しめなくなってしまいます。
「切り離す」というコンセプト
アーティストと楽曲を切り離して考えれば、多くの作品を楽しめメリットが得られるのと同じように、「言葉」も誰が言ったかという、「人」と切り離して考えた方がメリットがあります。
良い言葉は、言葉自体が良いのであって、不祥事を起こしたらからとか、思想が違うからとか、人が嫌いだから、国が嫌いだからという考え方をして、否定していたのでは、得られるもの、学べるものが少なくなってしまいます。
例えば、今の中国に悪いイメージを持っているからといって、論語に代表される孔子の教えが書かれた「四書五経」も毛嫌いするというのは、もったいない考え方です。
(実際には、孔子が生きた時代のシナと今の中国は、民族の入れ替わりが何度かあり、本質的には関係がありませんが)四書五経に書かれている言葉は、人生の役に立つ良い言葉であることは、変わりありません。
私たちの役に立つこと、利益になることであれば、「誰が、いつ言ったか」ということと、「言葉の良さ」は切り離して、受け入れるべきです。
そうすることで、より多くのことを得ることができます。
立派な人=立派な言葉ではない
政治やビジネスなど、社会で成功した人が言った言葉や、書いた本は、注目を集めます。
成功者が言った言葉に重みがあるのは確かですが、だからと言ってそれが良い言葉であるかは、別問題です。
またその逆も同じことで、立派なことを言っているから、その人が立派な人物かと言えば、そうでもない可能性があります。
言っていることは、とても良いことだけど、実際には、言っていることと逆のことをしているという指導者や、先生もたくさんいます。
江戸時代の儒学者、藤原惺窩(ふじわら せいか)は、四書五経に書いてあることが、立派なので、シナは立派な国だったと考えていました。
藤原惺窩は、儒教に心酔し、それを生んだ大陸を聖人の国とあがめ、そこに行きたいと思っていたといいます。
しかし、幕末の頃になると、その教えが実現されていたのは、シナではなく、日本だったということが分かってきます。
つまり、日本では、四書五経の考え方を取り入れ実行に移しましたが、シナでは立派な文言が実行されることはなく、「このようにあるべきだ」という目指すべき、目標としてだけ広まったということです。
評論家の渡部昇一先生は、シナに四書五経という立派な思想が出てきたのは、当時のシナが立派なのではなくて、むしろ、よほどろくでもない状態であったからこそ、それを正すために出てきた、というパラドックスが分からないといけないと書いています。
やはり、人と言葉は切り離して考えるべきなのです。
そして、出典がどこだとしても、自分の役に立ちそうだと思ったら、それを活かせばよいのです。
まとめ
良い言葉、作品、本、などが、私たちの役に立つことであれば、誰が言ったという「人」や「背景」は、問題にしないことです。
「人と言葉は切り離す」、「人と作品は切り離す」という、切り離しのコンセプトを取り入れれば、偏見に捉われず、誰からでも学ぶことができます。
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